根源

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文章の書き出しほど

かっこつけたいものはない。

どんな言葉を使えば

書き手である私がかっこよく映るのか。

そればかり意識している。

別にかっこつける必要はない。

ないのだが、そういう問題ではないのだ。

 

 

 

 

 

 

 

つくづく思う、

私はかっこつけであると。

かっこつけな上にナルシストであると。

自分のことを愛してやまないのだ。

不快極まりないことだが、

これは仕方がないことのようにも思う。

かっこつけやナルシストは

先天的なものだからだ。

ほら、先天的とか言っちゃうのだ。

別に生まれつきと言えばいいのだ。

だがどうしても私には漢字3文字の並びの方が

かっこよく見えてしまうのだ。

 

 

 

 

 

 

 

かっこつけとナルシストは少し違う。

かっこつけとは、かっこよくありたいこと。

ナルシストとは、自分のことが好きなこと。

誰にとっても既知なことを

今一度、確認しておく。

既知、、またかっこつけてる、、

そう思われた方々。甘い。実に甘い。

私はもはや既知をかっこいいと思う次元にはいない。

もうひとつ上の、

「既知ぐらい常日頃から使ってるけどなに?」

この次元にいるということを

お分かりいただけたらと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

まずはかっこつけに焦点を当てる。

私のかっこつけ記憶の中で

1番古い、ソフトクリーム事件について

少し聞いてもらいたい。

当時4歳の私には1歳の弟がいた。

家族4人で公園に遊びに行ったときのこと。

優しい両親(父親は後に鬼へとメガ進化する)は

ソフトクリームを息子2人にひとつずつ与えた。

さすがだ、父母よ。

私たち2人がケンカしないように、

ひとつずつ食べさせてくれたのだろう。

だがこのひとつずつ、というのが

くしくも私のかっこつけの原点になってしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

どういう原理でそこに至ったのかわからないが、

私はソフトクリームをゆっくり味わうのが

とてつもなくかっこいいと感じた。

ガツガツ食べる子どもらしさを抑え、

ゆーっくりと、ソフトクリームだけに

集中してるわけじゃないですよ感を

醸し出して食べている自分が

とってもかっこいいと思ったのだ。

1歳ながら周りの音を遮断して、

ソフトクリームを素早く平らげる弟を

なんとも哀れだと思ったのだ。

4歳の時点で兄失格だとツッコミたい。

ついでにもうひとつツッコむと、

家族にかっこつけるメリットは皆無である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

このエピソードからも十分わかることだが、

私は少しずれていることをかっこいいと

思ってしまう節がある。

小学3年生の時は髪を抜くことがかっこいいと感じた。

いきなりずれすぎである。

少しどころではない。

好きな女の子の前ではよく髪を抜いた。

心の底から言いたい、

なにがかっこいいのだ。

好きだった女の子にはこの場で謝罪したい。

いったいその子は何を見させられていたのか。

さすがに今は髪を抜くことがかっこいいとは

思わない。

思っていたら終わりである。

将来ハゲたら、

私は必ずタイムマシンに乗り

小学3年生の私をボコボコにすると決めている。

 

 

 

 

 

それからもたくさんかっこつけてきた。

21歳になった今でもかっこつけることをやめない。

いい大人がかっこつけすぎると、

いわゆるクサイ状態になる。

これには細心の注意を払っているつもりだ。

クサイと思われることだけは避けたい。

なぜならクサイというのは

どうしてもダサいに繋がってしまうからだ。

ダサいと思われるのは

私にとって死に値することなのである。

もしかしたら私はもう読者の方々のほとんどから

ダサいやつ認定されているかもしれないが、

多分大丈夫、まだそんなにダサくないはず、と

ギリギリを攻めるように

かっこつけてブログを綴っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

別にギリギリを攻めなければ良い。

そもそもブログを書かなければ良い。

何もしなければ、

ダサいと思われることはない。

だが、そうはいかないのが私なのだ。

やらないという選択肢は元からない。

やってかっこよく見せるのだ。

クサイをギリギリで避け、

かっこいい境地を目指し続ける。

これが、真のかっこつけである。

にわかなかっこつけたちは

出直していただきたい。

 

 

 

 

 

 

 

ナルシストも似たようなもんである。

自分のことが好きだと感じ始めたのはいつからか。

あまり覚えていない。

でも気づいたら鏡をよく見る人間になっていた。

私とまあまあ関わりのある方々は

お気づきかと思うが、

私は自分がどう見えるかを

非常に気にする人間なのである。

それは外見も内見も含めであるが、

やはり外見をひどく意識する傾向にあるようだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

この頃zoomとやらが流行している。

オンライン飲み会なんていう言葉が飛び交っている。

別に飲み会にする必要はない。

お酒を飲む意味はない。炭酸水でいいのだ。

 

 

 

 

 

 

お気づきだろうか。

こんなところでも

持ち前のかっこつけが滲み出ている。

あえて客観的に自分を評価すると、

別に炭酸水はかっこよくない。水と二酸化炭素である。

 

 

 

 

 

 

話がそれたが、

そのzoomをやっている時も

私は自分の顔が変に映っていないか、

かっこよく映っているかどうか、

そこのみを気にしている。

 

 

 

 

 

 

片目だけ一重、

ボウリングの球のように丸くてデカい顔、

ぺっちゃっとした鼻と

形のおかしいくちびる。

私よ、一体いつになったら

生涯かっこよく映ることのない人間だと

気がつくのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

それでも、私は自分のことが好きなのである。

嫌いになる要素なんていくらでもあるが、

好きなのだ。

こんなにも徹底してナルシストしている人間は

他にいるのだろうか。

いるならぜひ教えていただきたい。

 

 

 

 

 

 

 

しかし、文字に起こすという行為は

なんとも恐ろしいものだ。

どうしても客観的に見えてしまう。

自分が嫌になる。気持ち悪すぎる。

こんな気持ちの悪い人間は不快に決まっている。

決まっているのだが、

現実世界ではかっこつけもナルシストも

やめられない。

これはおそらく、やめようと思って

やめられるものではないのだろう。

私は、かっこつけてナルシストする運命なのだ。

生涯かっこつけて生きていかねばならない。

生涯ナルシストで生きていかねばならない。

4歳の時点で開花していたこの性格は、

もう治せない性格なのだ。不治の病とも言えよう。

私の根っこの部分、根源の部分が

かっこつけであり、ナルシストなのだ。

根っこを植え替えるには、

もう芽が育ちすぎたのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

え、かっこよくね?今の1行。

え、めっちゃかっこよくね?推せちゃう。

 

 

 

 

 

 

 

こんな具合である。

気がつけばかっこつけていて、

かっこつけている自分を推す自分がいるのだ。

 

 

 

 

 

 

 

さて、こんな私でも良いという方々。

いらっしゃるかどうか定かではないが、

もしもいらっしゃるなら、

あなたのその優しさに

心からありがとうを伝えたい。

そして私はそんな方々のために、

一生懸命生きていきたいと思う。

かっこつけでナルシストでも、

そんな人たちのためなら泥臭く、

ダサく生きていくことを厭わない。

自分にそんな一面もあるということを、

これから証明していくつもりだ。

私の生き様、瞬きせずにご覧あれ。

 

 

 

 

 

 

 

 

ご覧なさらなくても大丈夫です。